毎月恒例となりました「古事記」読書会を開催していました。
「朗読のための古訓古事記」を声に出して読み、「初めて読む人の「古事記」」を翻訳副読本としてZOOMによる対話を進めています。
今日はイザナギのみことが黄泉の国(亡くなった人が住んでいるとされる国)から逃げ帰ってきて、川で禊をし、その過程で様々な神が誕生したくだりを読みました。
神様の誕生の仕方が様々で、それはそれは多様です。
女性神であるイザナミから生まれた神 首を切られほとばしった血から生まれた神 脱ぎ捨てた衣類や装飾品から生まれた神 川に沈んだときに生まれた神 目を洗った時、鼻を洗った時に生まれた神。。。
こうしてみていくと、古事記が編纂された時代には、神様の誕生の仕方も、神様の姿も、実に多様です。
災いを起こす神も、それを収める神も生まれます。
決して、正義の味方が悪を倒したり懲らしめたりするストーリーではなく、愛憎もあり、鬼もあり。 これぞダイバーシティといった様相であり、さらに言うとどんなものも存在していいと言う生物多様性が、当たり前に存在しているのです。
あらゆる気持ち、思いをなかったことことにしない 多様性 良いも悪いもない。何でもあり 天と地の分離(いざなぎといざなみの別れ)から多くの神が生まれた 神は人間っぽい。そばにいる存在。決して崇め奉る存在ではない 「なる」が多用されている 古事記を通して昔の人は何を伝えたかったのかな?
等の感想が出て、ひとつにはくくれない多様な解釈、読みを生むなあと思います
さて、本文に出ていました「筑紫(ちくし)の 日向(ひむか)の 橘(たちばな)の小門(をど)の 阿波岐原(あはぎはら)」
の出てくる祓い清めの祝詞、「天津祝詞」をご紹介します。
Comments